一般社会人がプレーするクラブチームは全国に約2700ある。それらを束ねる連盟の会長を3期6年間務め、「選手がいい環境でプレーできる機会を増やす」と審判養成に尽力。「生涯スポーツとして楽しめる環境づくりを」と地方連盟に呼び掛け、中高年の競技人口拡大にも努めた。
1983年(昭和58年)の日本クラブ連盟設立時から理事を担い、2001年から8年間は理事長。上部組織である日本協会の理事も2001年から10年間務め、平成21年度から3期6年間会長、平成27年度からは顧問に就任している。
徳島工業高校(現徳島科学技術高校)を卒業後、四鉄工業クラブ(現徳島クラブ)に入部。1970年の徳島県クラブ連盟の立ち上げから関わり、現在も会長。発足当時は企業チームが主流で、試合会場の確保もままならないなど苦労を重ねた。その経験が、今も色あせない情熱の原点にある。
粘り、気配り、思いやりを身上に現場主義を貫く。理事時代から47都道府県連盟のほとんどを回り、くみ上げた意見を運営に反映。考えの異なる役員とも酒を酌み交わして心を通わせ、数々の難題をまとめ上げてきた。「ワンマンな一面もあるが決断が早い。後輩に任せた仕事でトラブルが起きてもきちんと責任を取る」というのが周囲の人物評だ。
60年代に徳島工業高校男子と名西高校女子のコーチとして全国総体に計3度導き、今も監督を務める徳島クラブを全国クラブ選手権に14度出場させている。「若い頃はむちゃくちゃ練習させたし、自分も勉強した。熱い思いがないと選手はついてこない」と語る稲垣さんは、まさに「バスケット一筋の人生」のようである。 |